Persona Mania

日常、そして心境。

ワクチンについて思うこと

 

僕はワクチンを打っていない。

ワクチンの話題で、相手に何回目かを尋ねられてそう言うと、相手はタブーなものでも見るように目を泳がせる。

僕はアレルギー体質だから、と付け足して、何となく居心地の悪い話題から別の話題へ努めて切り替える。

 

ワクチン接種は努力義務だ。

つまり、自己責任。

だから、打つも打たないも自由。

僕は打たない選択をした。

 

ワクチンや薬の開発は、過去の例からすれば何年、何十年の時間をかけることがザラにある。

それをどうだろう。こと、コロナに関しては2年程度で接種を開始した。

もちろん、僕よりもうんと頭のいい人達が考えて作ったのだから、ある程度、安全と考えるべきかもしれない。

だけど、僕はそう思えていない。

どんなに優れた人でも、間違えることがあるからだ。

国もそうだ。

薬害事件というのは過去に何度もあった。

技術的に問題がないと考えても、あらゆる可能性を想定し、何年もかけて試験するのは、そう言ったトラブルを避けるためだったはず。

 

焦ればことを仕損じる。

 

僕は、職場や知り合いからコロナワクチンを打てという同調圧力を感じる度に、なぜワクチンを打つのか、と本質を考えることにしている。

 

そもそも、なぜコロナに罹ってはいけないのか。

もちろん、どんなに些細な症状であれ、病は避けた通りたい。

コロナを恐れたのは、それが未知のウイルスだったからではないのか。

罹患すれば、どのような恐ろしい状態になるのか分からない、だから怖いのではないのか。

 

ではワクチンはどうだろう?

 

僕はコロナウイルスそのものも、ワクチンも、どちらも未知のものだと思っていた。

どちらも体内に入れば、どのような作用をもたらすのか分からない。

それは、僕よりうんと偉い人達であっても、時間経過でしか得られない情報があり、それを持って始めて安全性が高い、と言える事実もあるからだ。

 

未知のウイルスに怯えて、効果が未知のワクチンを接種する選択は僕にはできなかった。

 

それに、僕にはコロナウイルスで亡くなる人よりも、ワクチン接種後に「因果関係は分からない」死を迎える人や、「因果関係が分からない」後遺症を抱えた人を知る機会が多かったから尚更だった。

コロナが話題になった当初、死亡率や重症化率が高いと世間で騒がれた。

僕は無知なので、ただの風邪に見えていた。

そして残念ながら、未だに僕は無知のままのようだ。

 

老人や基礎疾患を持っていて免疫力が低下した人は重症化しやすい、ワクチンを打たなきゃ!という風潮がある。

確かにそうだろう、と思う。

だけどそれは、コロナに限ったことじゃないはずだ。

どんな病も、免疫力が落ちれば罹患しやすくなる。癌だって、免疫力が下がれば罹患しやすい。

 

また、ワクチンを接種しても、感染しないわけではないし、感染予防効果があるとされる期間の短さにもメリットを感じない。

副反応や接種後の「因果関係が分からない」

症状の情報を鑑みても、ワクチンにメリットを感じられない。

 

僕はこう考えて打たない選択をし続けている。

いずれ、打つという選択をするかもしれない。

でも、現状では打たない。

 

つまり、打つも打たないも自由。

色々考えて、打つ人は打てばいい。

ワクチンは自己責任。

自己責任ということは、「自分が罹患しないように」打つものだ。

他人に「人に感染させないように配慮しろ」と言うことはできない。

だって、他人の命や人生の責任を、僕は持たないからだ。

 

祭囃子

 

こんな時期に祭り?と思って窓を開けた。

うちは閑静な住宅街だし、祭りの時期でもないのに、笛や太鼓の賑やかな音が聞こえる。

まるで、夏休みに近所の神社で行われる盆踊りの音みたい。

窓から見渡しても、それらしき賑わいはない。

だけど確かに聞こえる。

もし祭りなら行ってみようか、と思った。

その前に、どこでやってるのか知りたくて、隣家の両親に電話したら、祭りなんてやってないと言われた。音も聞こえない、と。

狸囃子じゃないかと言われたけど、狸囃子ってなんなん?

 

狐に化かされた気分だね。

 

 

嘘と真実

 

どんなに取り繕っても、すぐに剥がれ落ちてしまう。何度も何度も何度も、粉々に砕け落ちては、また新しくして。

本当はそんなこと思ってもないくせにって、ずっと頭の奥で考えながら、さも純粋なフリをして頷いてみせるのは滑稽だ。

面倒くさい。

何もかもがどうでもいい。

そう言いながら、失われることに恐怖している。

その様が何より卑しく、醜い。

誰か一人でも、真実を認めてくれたなら、救われるのだろうか。

紛い物ではない真実を。

きっと、それをこの上なく渇望しながら、それを手にしてもやはり、満たされないのだろう。

嘘と真実を他者が受け入れられないのと同様に、私もそれを行えないのだと思う。

だから嫌になる。

だからどうでもいいと思い始めて、本当にどうでもいい存在になるのだろう。

 

 

え?普通、謝るとこじゃないの。

 

仕事復帰の目処が立ち、職場側に説明を聞きに行ったのです。

こちらとしては、パワハラにしろ、休んだことを一言、謝ったのですが…

何でアンタ一言も謝んないの…?

それどころか憮然としてるのは何でだい…??

まあ、そういう人間だろうなとは思ってましたけど…。

一言くらい、ねぇ…?

「これでいいんだろ」オーラがヒシヒシ伝わるのは笑いそうになったよ、うん。堪えたけど。

いや、正直、自分がうつ病になったのも未だに信じられないし、最後まで自覚なしなんだけど、休みに入ってから、体調が普通にヤバかったので結果的に休んでよかった。

 

いや、しかし、今日の話し合い?説明?は、いちいち職場に出向く必要もない内容だったなぁと複雑な心境。

勤務表と処遇を一方的に説明されただけだからねぇ…。それ、郵送と電話で良くない?

 

そもそも、加害側と自分が離れてないし、担当業務を変更させられただけだから、環境改善になってないんだよなぁ…。

まあ、パワハラについての研修を受けるらしいけど、期待できないなぁ。

今日のあの態度じゃねぇ。

 

自己改善できないなんて、歳はとりたくないなぁ。

 

 

仮面をつける

 

本当なんて無意味で、理想だけが必要。

だから、仮面をつける。

 

仕方がないことなんだと思うけど、なんだか、もやもやしていたたまれない。

それでも、そうするしかないんだろうな。

 

 

 

頭がおかしくなった話

 

今、自分は、論理的思考ができない。

イライラして、普段だったら怒らないようなことでも苛立ちを抑えられなかったり、あえて他者を傷つけるような言葉を用いたりしてしまう。

感情をコントロールできないし、抑うつ的な状態が長く続いていて、もう、よく分からない。

 

それは、自分が、物事を可能な限りスムーズに進めようとして、本心を偽り、ねじ伏せて来たことの結果なのだと思う。

 

まだ、この厄介な現象が不安の種だったころ、頭の中では、いつかこの鬱屈した感情や、当時はまだ原動力として使用できていた憂鬱に、呑まれて、自分は心を保てなくなる可能性が高いと感じていた。でも、それを選択した当時は、そうするしか道はないと判断した。

今、当時の選択を振り返っても、やはり、そうするしか乗り切れなかっただろうと思う。

 

いつしか、朝、起きることが苦痛になった。

人の目を見て話すことが苦しくなった。

会話の途中で、相手の声が音として聞こえるのに、言語として理解できなくなった。

ああ、この人は、何を言っているのだろう?

よく分からなくなって、ぼんやり思考した後、急に我に帰る、話の文脈から、アレのことだ、と理解して、話を合わせる。

こんなことが常態化し始めた頃はまだ、初期段階に過ぎなかった。

 

起床時、体が重くて動かない。

まるで、自分の体の中に、沢山の灯油が溜まっているかのようにずっしりと重くて、腕を上げるのさえ億劫な朝が毎日訪れた。

休日は一日中眠り、起床している時間は5〜6時間になった。

それでも出勤しようと起きるのは、普段通りに楽じゃなかった。

 

今日はあの人が見積書を持ってくる。

今日はあの人が修繕の下見に来る。

今日はあのファイルの提出期日だ。

 

出勤せざるを得ない理由を探した。

それでも、遅刻ギリギリの時間まで起き上がれなかった。

 

もう、行きたくない。

もう、やりたくない。

 

夜中に、胃が痛んで起きることもザラにあるし、眠りが浅くて、一時間半置きに目が覚める日もあった。

毎日見る夢は、一般的に悪夢と呼ばれるもので、大体は職場が災害や事故、天変地異で破壊されている。それか、日常の延長のような夢だった。

 

日中、出勤すると、脳が興奮状態になる気がした。頭の奥、脳髄がジリジリと焼き付くような不快感。まるでファンの壊れたCPUみたいな感覚だった。

 

帰りたい。

 

ずっとそう思いながら、仕事をする。

帰りたい、ボソリと口から溢れる。

それは、帰宅しても口癖のようになって、ふとした時に帰りたいと独り言を呟いていた。

家にいるはずなのに、次の日の出勤を考えて言葉が溢れてしまう。

 

端的に言えば、極限に疲れた状態から抜け出せないような感じで、食べ物の味はよく分からなくなった。

それなのに暴食と拒食を繰り返えす。

 

仕事以外では、人と会話することはおろか、対面すること、姿を見られることすら苦痛になった。宅配便の受け取りすら、嫌で居留守を使う。

 

毎日、死にたいと考える。

死にたい、いや、消えたい。

存在を消したい。

生まれ変わりもなくていい。

苦痛がなくなるなら、意識も、記憶も、喜びもない、無の存在になりたい。

この世界に存在しなかったことになって、いや、どこにも存在しなかったことになってしまいたい。

 

だって、ただの死では、少なくとも親は悲しむから。

 

でもそんなファンタジーなことできないよな。なんて考え直して、妥協する。

Googleで死ぬ方法を探す毎日。

 

痛くない死に方。

確実に死ねる方法。

 

いつもスイスの安楽死の記事が出てきて、そんなのハードル高すぎじゃんって思いながら、やっぱり首吊りが確実か…とか考える。

ああ、でも、死体がやばいからなぁなんて思って、睡眠薬とアルコールか…と考え直して、だけどこの前ニュースで見た人は生き残って大変そうだ、とか思ったりして。

 

この苦しみが少しでもなくなるなら、腕でも切ってみようか。

あ、やっぱり、出勤した時に変な目で見られるからやめよう。でも、どうしたら楽になれる?

 

明らかにまともじゃないのに、騙し騙し、勤務する。

 

それでも休みがちになって、今日。

もう無理だと思った。

 

もちろん、きっかけも発生したんだけどね。

 

早退して、ずっと眠って、起きて、これを書いている。

明日もいつも通り、無理矢理に出勤することはできたかもしれない。

でも、明らかに自分はおかしくなっている。

 

これ以上は、本当に深刻な精神疾患を患うことになり兼ねないと思って、とりあえずは向こう3日間の休みを作った。

 

近いうちに心療内科に行って、明確な診断があると思う。まだ、軽いはずだから、大丈夫だと思うけど、やっぱり診断されたくはないと思う。

 

もともと俯瞰して物事を見る事が得意なタイプだったから、この状態でも自分を俯瞰して判断できる瞬間があって良かった。

 

今日を逃せば、もう手遅れだったかもしれない。

 

だけど、帰宅の車内では、涙が止まらなかった。

負けたようで、悔しかった。

自分の判断はおかしいのでは?考えていた。

何かに失格の烙印を押されたような感じだった。

 

今も、脳の奥が熱い。

回線が焼き切れそうな感じで、きっと、開頭したら焦げ臭いんだろうなぁ、なんて。

 

自分が本当に、ただの機械なら良かったのに。